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中標津町郷土館ブログ 学芸員日誌
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北海道の東、中標津町より発信! 歴史も自然もひっくるめ、あっちへウロウロ、こっちでドタバタと町内を駆け回る学芸員の日誌

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2010年3月2日(火):雛祭りイブ

まずまずの青空であった。
が、最低気温は空港の-13.3 ℃、最高気温も同所で-2.9 ℃と今日も真冬日。
風は弱かったものの、何しろ冷たい風であった。
せっかく融けた丸山公園の池も、うっすら凍っているようであった。

写真は、館内に展示したDC-3


先日紹介したばかりのYS-11


それと、
DHC-8 Q300

これはモビールにしてみた。
館内に風は吹かないので、是非フーっと息を吹きかけてやってください(笑)

今日は、48年前TV番組のテープおこし(映像は未発見。下の「more」に内容を貼り付けてあります)、資料運搬、飛行機の展示作業、古い写真の取り込みと整理関係、会議の準備関係、いくつかの問い合わせ対応、行政事務など。




NHK総合TV
「町から村から」(中標津町)

撮影 昭和37年5月17~21日
放送 昭和37年5月27日(15分)

~テープ内容~
果てしなく広がる根室原野、畑にできる土地が30万ヘクタールもあるといわれるこの原野の中心担っている町が、中標津町です。
標高1,005mの武佐岳を仰ぐこの町は、面積70万平方キロ、人口1万5千の根室内陸随一の大都会。
年毎に発展に継ぐ発展を重ねて、やがては根室支庁をここに誘致しようという動きさえ見せている新興都市。
古い家柄を誇る根室市にしてみれば、とんだライバル出現といったところかもしれません。

しかし、この中標津町、その歴史はいたって浅く、昭和21年に標津町から分村したといいますから、戦後はじめて呱々の声をあげたことになります。
そして、ものの50年も歴史をさかのぼってみれば、このあたり一帯は見渡す限りの大森林と不毛の原野。

ただひとつの交通機関と言えば、大正14年に厚床から通じた殖民軌道だけで、この唯一の部落民の足も利用者が少ないので経費もかさみ、厚床~中標津間1円44銭と当時としてはたいそう高かったといいます。

こんな有様でしたから、当時は部落の付近に熊の出没することも珍しくなく、熊の足跡や糞などは町中至る所に見られたということです。

その根室原野が、人間の手によってこのように拓かれて、たくさんの人々が移り住むようになったのは、いうまでもなく酪農を主体とした、この地方の農業開発が進められるようになってからです。
植松菊松(次の間違いか?)、乾定太郎といった人々に始まる根室内陸の開拓が、明治の末から大正にかけて着々と進められるようになってからです。
特に大正3年以後の入植戸数の増加はめざましいものがあり、大正3年56戸、大正4年59戸、大正5年88戸、大正6年146戸、大正7年に至っては実に400戸という多数の農業殖民が行われて、川北、武佐、開陽、俣落、俵橋などに入り、このあたりの農村人口は実に2,000戸を数えたといいます。

もともとこの中標津地方は、その大部分が摩周系火山灰によって覆われており、その上積算温度は2400℃以下と言う恵まれない立地条件にあるため、営農は容易ではありませんでしたが、幸いにも海岸地帯に比べれば、ガスによる影響が幾分なりとも少ないので、酪農を主体とした、いわゆる主畜経営はなんとか成り立っていきました。

もちろんこの間には、穀菽農業の失敗、冷害による不作、コガネムシの大発生など幾多の苦難はありましたが、石に齧りついてでもこの原野の開発を成し遂げようとする移住民たちの強い意志は、よくそれらの苦難を乗り越え、去年は牛乳の生産額37,000石に達するという飛躍的な発展を見せるに至りました。

このように酪農の順調な伸びは、この町の農家の経済を比較的豊かなものにし、特に戦前から入植した既存農家にあっては街の人たちを羨ましがらせるような生活もおこなわれていることがあるといいます。

電気洗濯機やテレビをはじめとする、色々な電化製品の普及もめざましいものがあります。近代的な生活は農村でよく問題になる激しい労働の疲れを癒し、明日の生産への意欲を培って中標津町酪農の一段の発展を約束する原動力となるわけです。

さて、中標津の農家の人たちのレクリエーションとして最も人気を集めているのは養老牛温泉です。
今から300年前、アイヌによって発見された養老牛温泉は、時にはアイヌのいこいの場となり、時には古式ゆかしい熊送りの場となって幾年月かを経てきました。

そしてその間、ピリカメノコのセカチへの悲恋の物語を秘めるこの温泉場は、春の桜、秋のモミジ、近くを流れるモアン川のヤマベ釣りなどの四季の風物も相まって、中標津町ただひとつの観光地として都会は人々もちろんのこと、この近隣の農家の取り入れ後のレクリエーションの場としても人気を集めています。
久しぶりの農休日に、得意の浪花節を唸るこのおじさんの気持ちの良さそうなこと。

このように豊かな中標津の農村の生活は、当然この町の様子を色々な点で、他の町や村と違ったものにしています。
最近全国的に騒がれている農村の結婚難という苦労も、ここではほとんど問題にならないと町の人は自慢しています。
ここの農村と街場の結婚式の半分近くを受け持っている、この中標津神社。
1日に4組も5組もの結婚式が重なることもあるという、これはまたまことにおめでたい話です。
これは隣部落の計根別からここに嫁いできた花嫁さんを迎えてのある結婚式風景です。
折からの暑さに向かって押すな押すなの結婚式を捌かなくてはならないとあっては、日頃いかめしい神主さんも、ちょっぴり人間らしい仕草におよばざるをえないということも、またやむを得ないことでしょう。

中標津町の豊かな農業を支えているのは、北海道立農業試験場根室支場です。
明治43年の根室農事試作場の設置に続いて、昭和2年に道農業試験場根室支場が設立されて、この地方の地質や気候、それに合った作物の研究をおこなってきたことが、この地方の営農の発展に寄与した功績は見逃すことができません。

農業試験場と並んで、この町が誇りうる試験研究機関といえば、北海道サケマスふ化場根室支場が挙げられます。
北海道の名付け親といわれる稀代の探検家松浦武四郎は、その著「知床日誌」の中で「シベツとはサケがたくさん居るところ」という意味だと書いていますが、そのサケの豊富な標津川、あるいは西別川などを控えてここの孵化事業は、名実ともに日本一の名をほしいままにしています。

農業、水産と並んで、林業もまた中標津町で忘れることのできない産業です。
4万ヘクタールを超える林野からの林産物の生産は、年間6,000万円以上もあって、この町の経済を潤しています。

二次産業を起こすことが、近代都市としての最も大切な条件のひとつになっていることは今更いうまでもありません。
中標津町はこの意味でも、近代都市としての資格を備えているといえましょう。
豊富な牛乳を使っての乳製品の生産、根室原野で採れる質のよい馬鈴薯を使っての澱粉工場をはじめとして、将来は知床の地下資源を使っての重工業の誘致なども考えられているようです。
ここにご覧いただいているのはアイスクリームの製造工程です。

三次産業も近年めざましい発展を見せています。
日曜日ともなりますと、汽車に乗ってこの町へ映画を見に来るお客さんが引きもきりません。

1960年代の都市にふさわしく、立派な町立病院もつくられました。
ここで診療を受ける人は、年々10万人近い数になっています。

鉄道がここを中心に放射状に走っているように、電話もまたこの町が根室内陸のひとつの中心となっています。
加入電話の数も500を超え、年間30,000通を軽く超える電報がこの局から発信、あるいは受信されています。

中標津町の何よりの強みは、ここが他の一部の町村のようにその発展が停滞し、あるいは年毎に寂れていく町ではないということです。日進月歩という言葉をそのままに、この町は人口の面でも産業の面でも力強い躍進を続けています。

その中標津町の躍進を最も端的に象徴しているのは、なんといっても中標津空港でしょう。
札幌との間をわずか1時間で結ぶこの飛行場は、今年も6月早々には開通して、この町を根室原野の空の玄関にするはずです。
美しい武佐の山並みを後にして、青空高く飛び立っていくその飛行機が、そのまま中標津の今後の躍進を意味するように、と祈りたいものです。

その後「中標津小唄」が流れ、曲とともに終了。
by nakakyou_blog | 2010-03-02 17:52 | 飛行場・飛行機 | Trackback | Comments(0)
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