2013年9月21日(土):標津番屋屏風に描かれたアイヌの姿とは!?〔中標津町郷土館〕
今日は青空もあったのですが、基本薄い雲がかかっていました。
最低気温は上標津での12.7℃、最高気温は中標津での23.5℃で「8月中旬並み」。
午前中は千葉大学による当幌川遺跡発掘調査に行って来ました。
↓埋め戻し中の18号住居
午後からは、『しべつ縄文まつり2013特別講演会 アイヌ風俗資料としての"標津番屋屏風"』を聴講しに標津に行って来ました。
講師、佐々木利和先生からは、『標津番屋屏風』に描かれたアイヌ民族の様子について教えて頂きました。
中でも、道東地域では標津番屋屏風のようにアイヌの家である「チセ」が写実的に記録された例は珍しく、アイヌ風俗資料としての価値が高いと佐々木先生は評価していました。
↓『標津番屋屏風』に描かれたアイヌ民族の家「チセ」
※写真中央の紅葉した木の後ろ、とその右側にあるのがチセです
入り口(セム)があり、屋根には煙出しがある。、屋根は草で葺かれている(地域によっては笹や樹皮を使う)。
また、右側にトバを作るため、サケを干している様子が描かれており、さらに手前のアイヌの男性は髷を結っている、など、たくさんの情報が詰まっています。
最後に、佐々木先生から西厳寺住職(「標津番屋屏風」所蔵)が所有している「蝦夷錦の七條袈裟」などについて説明して頂きました。
「蝦夷錦は18~19世紀に清朝(現在の中国)の官服として使用された錦の衣でアムール川下流域からサハリンを経由して、北海道のアイヌ社会に、そして松前藩を介して日本国内に持たらされていたものです。龍の刺繍が特徴で、その爪の数には3本、4本、5本といくつかの種類があり、5本爪の龍(蟒)文が最も上質とみなされていました。この蝦夷錦の袈裟は西厳寺13代住職が明治初期に北海道に巡行した際、日高地方の檀家から御礼として頂いたものといわれています。」(ポー川史跡自然公園展示パネル』より)
↓「蝦夷錦の七條袈裟」は五本爪です。
↓「蝦夷錦の七条袈裟」の本体はポー川史跡自公園で公開中です。
講演会終了後、『標津番屋屏風』、『蝦夷錦の七條袈裟』、それから会津藩主松平容保が使用したと伝わる漆器を見てきました。
↓伝松平容保使用漆器
今日一日、Y係長(学芸員)に同行させて頂きました。
本日のブログはM学芸員でした。
アイヌ民族の生活の様子が屏風絵から読みとれて興味深かったです!(V-V)/