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中標津町郷土館ブログ 学芸員日誌【書庫】
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2011年2月21日(月):熊部隊まとめ


今日もよい天気。
最低気温は空港の-16.6℃、最高気温は中標津の+1.1℃で「3月中旬並」。
日差しが力強かった(ように感じた、個人的には)。

↓午後イチの丸山公園の池のようす。
2011年2月21日(月):熊部隊まとめ_e0062415_1731198.jpg


と、すぐ横の木にゴジュウカラがやってきた。
2011年2月21日(月):熊部隊まとめ_e0062415_17325564.jpg

近くて嬉しいのだが、小鳥はすぐにちょこまか動くので、近距離撮影はけっこう大変なのだ。

お、目が合った。
2011年2月21日(月):熊部隊まとめ_e0062415_17324483.jpg

けど、ちょっと目付きが悪いような気がするなあ。
こういう写真、3Dで撮れれば面白そうだ。

さて、
先日、武佐岳中腹に駐屯していた熊部隊について問い合わせコメントがあったので、これまでの手持ちの資料とあわせ、郷土史誌を中心に調べた結果、(ちょっとはっきりしない部分もあるが)以下のことが分かったので掲載します。

中標津に駐屯していた熊部隊について
・戦時中、武佐岳中腹に駐屯していたのは、第7師団の第3大隊であった、歩兵第28連隊の熊9207部隊。
※部隊は、第9中隊(尽忠隊)、第10中隊(嶽毛隊)、第11中隊(紅雪隊)の3個中隊から編成(『標茶町史 通史 第2巻』、2002年)
※「熊9207部隊加藤隊武佐岳ニ陣地構築作業ノ為駐屯シ隊長ニ住宅ヲ貸与セリ」(出典不明)
※「28連隊第1大隊金子隊[隊長:金子少佐、本部:標茶]を中心として、藤川隊[隊長:藤川健二大尉]、直田隊[中隊長:直田清治大尉]ら4個中隊600名規模の「熊9207隊」が編成され・・・」(『俣落開基75周年記念誌 またおち川』、1993年)という情報もある

・武佐岳へは築城のため昭和20年6月から駐屯(『標茶町史 通史 第2巻』、2002年)
※それまでは標茶の軍馬補充部にいた

その他、中標津町内に関する情報としては
・上武佐の土田旅館は熊部隊の経理事務所として使われていた(「道東空襲を探る」、1995年、菅原真一『月刊新根室 95年10月号』)
・中標津小学校は一部兵舎として使われた(『中標津町史』、1981年)
・俣落地区には塹壕や坑道陣地が築かれた(『俣落開基75周年記念誌 またおち川』、1993年)
・標津市街の龍雲寺に1小隊が分屯した(『標津町史』、1968年)
・開陽地区にも熊部隊が駐留し陣地構築(『開陽七十年史 輝望』、2002年)
・〔竹内良太郎氏談〕(中標津付近に)クマ部隊という歩兵隊が来ていたが、それは40~45才の年取った人ばかり招集されていた。標茶に大隊があったと思う(『草に埋もれた飛行場』、1975年、なかしべつ町郷土研究会)
・〔鈴木重蔵氏談〕開陽小学校に駐屯していた部隊の小隊は武佐岳陣地構築に携わり演習も行っていた。武佐川支流の上流を利用して炊飯をしていた(出典不明)

肝心の「部隊長名やどの様な編成の部隊が駐屯していたのか」という点については、残念ながら明確に答えられませんでしたが、なにぶん資料が少ないのでご容赦ください。
また新たに何かわかった際には掲載したいと思います。

↓参考サイト
網走海岸の防御陣地
by nakakyou_blog | 2011-02-21 17:38 | Comments(15)
Commented by 慶次 at 2011-02-22 10:28 x
nakakyou様、本当に色々とありがとうござます。
かなり詳細な情報で、しかも熊部隊以外の情報もあり、祖母も喜んでいます。
K様にも情報提供頂き、感謝の念に堪えません。

このブログに出会えて本当に良かったです。。。
ありがとうございます。
Commented by nakakyou_blog at 2011-02-22 11:54
慶次さん
そう言っていただければ幸いです。
このブログを是非“お気に入り”に入れてやってください。
Commented by 殖民軌道つながりのK at 2011-02-25 12:08 x
[クマ部隊]

「ガキ大将のひとりごと」島田甲一郎・著 文芸社・刊
(google books で一部閲覧可能)

のP.207 以下に、武佐岳での陣地構築(や、中標津の野戦病院)の様子が書かれています。

Commented by nakakyou_blog at 2011-02-25 15:07
Kさん
これはオドロキましたねぇ。
いやーあるところにはあるものです。
慶次さんにもお勧めですね。
Commented by 殖民軌道つながりのK at 2011-02-25 19:15 x
[武佐骨幹陣地 googleマップ]

文字通り「骨幹」が見えてきたので、そろそろ公開してもよいかと…
http://maps.google.co.jp/maps/ms?hl=ja&ie=UTF8&msa=0&msid=208804378853235785561.00049ceab1caef80ab526&brcurrent=3,0x5f6da0d1fffdd61b:0x61ed3d315c355aca,0&ll=43.600781,144.954987&spn=0.208842,0.410614&t=h&z=11
Commented by 慶次 at 2011-02-27 21:53 x
Kさん、これは驚きです。
祖母の話と合致する所がありビックリです。
「三角兵舎」・・・祖母も実際に見たそうです。実家の近くにも兵舎があり、いつも起床ラッパのせいで起されていたそうです。
「7月14日の空襲」・・・祖母も経験しています。当日交換台に座っていた祖母は空襲警報発令の一報を受けて、武佐の警防団の団長(曽祖父)に伝えたそうです。郵便局の職員や客は次々と避難して、局内には誰も居なくなりました・・・ですが、交換手である祖母は交換台を敵の攻撃直前まで死守することを厳命されていたので最後まで残っていたそうです。誰もいなくなり怖かったそうです。爆音が間近に迫り、いよいよダメだと思い電話線を切断して郵便局裏の防空壕に飛び込みました。そこには軍の将校がズラリと並んでいたそうで、祖母が視線を向けると恥ずかしそうに目を逸らしたのが印象的だったそうです。
当時16、7歳であった祖母が攻撃ギリギリまで職場を守っていたのに対して将校はさっさと退避した事実に「それでは目を合わせられないわよね」と祖母は言っていました。

Commented by 殖民起動つながりのK at 2011-03-02 00:04 x
驚きといえば、「水口の清ちゃん」こと、祖母上のお話もすごいです。
是非、慶次さんの手で、聞き書きをまとめていただきたいと思います。

なお、中標津町史から…

・「ガキ大将のひとりごと」
http://books.google.co.jp/books?id=0amDixkpjpEC&printsec=frontcover&dq=%E3%82%AC%E3%82%AD%E5%A4%A7%E5%B0%86%E3%81%AE%E3%81%B2%E3%81%A8%E3%82%8A%E3%81%94%E3%81%A8&hl=ja&ei=0gVtTcmVKYKmvgOr2-y3BA&sa=X&oi=book_result&ct=result&resnum=1&ved=0CCoQ6AEwAA#v=onepage&q&f=false
のp.218の、著者に焼酎代わりに消息用アルコールを振舞ってくれた、武佐のさばけた産婆のおばさんは、町史p.881によると「八田モト」という方のようです。

#中標津町史は、札幌の「赤レンガ」、道立文書館にもあったと思います。
Commented by nakakyou_blog at 2011-03-02 07:48
「中標津町史」→文書館の閲覧室の根室関係の棚に入ってますね。
それと、道立図書館にもあります。
Commented by 殖民軌道つながりのK at 2011-03-02 19:16 x
[私の記憶が確かならば…]

>「中標津町史」→文書館の閲覧室の根室関係の棚に入ってますね。

入って、ちょっと行った先の左側にある、低めの書棚でしたっけ?

しかし、あの部屋、旧い史料を読みながら、これまた旧い窓枠ごしに、雪の落ちて来るのを眺めてると、それだけで幸せな気分になれますねぇ。

空いてるし、暖ったかいし…

ああ、また行きたい!

Commented by nakakyou_blog at 2011-03-02 20:32 x
>入って、ちょっと行った先の左側にある、低めの書棚
根室関係は入って左手にあるカードボックスのさらに奥にある書棚の2列目の奥側の最下段、でなかったかな?
最近はあの棚の本も閲覧用紙に記入しなければならなくなり、戻すときも棚かカウンターに戻すようになりました。
こないだ行ったときはけっこう混んでましたよ(たまたまかな?)
Commented by 殖民軌道つながりのK at 2011-03-03 10:47 x
[武佐岳陣地・類例探し]

たぶん、こんな
http://www3.atword.jp/pupilla/2009/07/03/20090703/
ものが、今でも武佐岳の中腹に埋もれてるのでしょうかね。

>根室関係は入って左手にあるカードボックスのさらに奥にある書棚の2列目の奥側の最下段、でなかったかな?
 あらら、あっちのほうでしたかね。

>こないだ行ったときはけっこう混んでましたよ(たまたまかな?)
 あそこはガラガラが魅力なのになぁ。
 あるいは、一時縮小計画があったので、利用者増大策が功を奏したのかも。



Commented by nakakyou_blog at 2011-03-03 11:52
Kさん
きっとどこかに埋もれているのでしょうねえ。
航空写真で分かるくらいだったら行ってみる気にもなるのですが、以前行った時のことを思い出すと、雲をつかむようなかんじです。
なお、地元の人はあのあたりを「笹山」と呼ぶそうです。
Commented by nakakyou_blog at 2011-03-08 16:41
慶次さん
すでに見ているかもしれませんが、武佐時代の水口薬局の写真です↓
http://pds.exblog.jp/pds/1/201101/17/17/a0200017_2171944.jpg
Commented by 殖民軌道つながりのK at 2011-03-08 21:51 x
[武佐の水口薬局]

いやぁ、大店(おおだな)ですね。商いも手広いし…。とくに「洋」食料品なるものに興味があります。ほぼ同時代、まだ田舎だった東京の世田谷の乾物屋さんに、イタリア製やフランス製のマカロニが置いてあったようですので。

ところで、この写真、あちらこちらに和服の女の子が写ってますが、この中に「水口の清ちゃん」がいるのではないかと…。
Commented by nakakyou_blog at 2011-03-08 22:06
Kさん
おお、そうですよね。
今ネットに載せているのは画像が荒いので、もう少し明日にでも撮りなおしてみますかね。